僕の知らない君と、君の知らない僕 〜智晴〜


智晴にとって、茜はただの幼なじみではなかった。
だが、恋人になりたいと思ったことはない。
抱きしめたい、キスをしたい、そんなことを思ったことは一度もない。
けれど茜は間違いなく大切な人だったし、特別だった。

そんな茜に恋人が出来た。

智晴の衝撃は、並ではなかった。


「結局、そういう意味で好きだったってことなのかな……」
授業の終わった放課後の教室。
窓際の日当たりの良い席。
その席に反対向けで座り、日誌を丁寧な字で書き進める美雪を正面にして智晴は言った。
「好きすぎて恋愛対象だって思いつかなかっただけで、本当は恋してたのかな」
日直の仕事をすべて美雪に任せて、自分はぶつぶつと途方もない呟きを繰り返している。
けれど美雪が咎めることはなく、優しく、すべてを受け入れてくれている。
ペンを動かす手は休まずに美雪は答えた。
「……智晴がそういう答えに辿りついたんなら、それはそれでまだ決着を付けることは出来るだろうね。でも本当にその答えが智晴の答えなのかな? 私にはそういう風には見えないけど」
優しく、穏やかな声で美雪が言った。
その通りだと、智晴は思う。
ショックを受けたことに間違いはなかった。
けれど、その相手の男に激しく嫉妬したわけではない。
ただ、智晴にとって特別な茜の特別が、智晴ではなかったことに苛立ちを覚えているのだ。
それは恋ではないような気がすると、智晴は思っている。
「うん……うん、多分、美雪ちゃんの思った通りだと思う。どっちかっていうと、母親が離婚して再婚したのがショックって感じに近いんだと思う」
「何そのリアルな例え」
くすくすと、美雪が笑った。
美雪の、その優しい笑い方が智晴は好きだった。
いつも美雪は穏やかに笑っている。
おはようと言えば一日を頑張る力をくれる笑顔を見せるし、失敗して落ち込んでいる時も大丈夫だと優しく微笑みかけてくれる。
まるで聖母のようだと思う。
すべてを包み込み、受け入れ、守ってくれる。
それに甘えている自覚はあった。
いつも、そして今も。
「でも、もし本当にその感じに近いんだったらさ、智晴も彼女でも出来たら変わるんじゃない?」
にこりと、美雪が言う。
一瞬、なんの話かと思ったが、智晴の話が続いていたのだとすぐに理解した。
自分で振っておいて、考えを放置していたことを恥ずかしく思い、その分真剣に考えてくれていた美雪に感謝する。
だけど、少し美雪らしくない、子供みたいな提案だと思った。
だから智晴は思わず言ってしまった。
「じゃあ、美雪ちゃんが付き合って」
美雪の手が止まった。
手だけではない。
頭から指先まで、あの穏やかな表情もなくなり、固まっている。
美雪相手に、言ってはいけない冗談だったと、智晴は焦った。
「ごめん、冗談、冗談だって!本気じゃないから」
「……本当、だよ。馬鹿な冗談言わないで……」
「うんごめん」
素直に謝ると、美雪は顔を上げ、微笑んだ。
「だめだよ、本気じゃないのにそんなこと言っちゃ。私がうんって言ったらどうするの?」
「それは……困るな」
美雪に答えて、智晴は苦笑いをして見せた。
しばらく二人で微笑み合うが、不意に美雪が俯いた。
どうしたのだろうかと智晴は俯いた美雪を覗き込んで、そして後悔した。
美雪が、泣いている。
「み、美雪ちゃ……」
「違、違うの、泣こうと思ったわけじゃなくて……」
美雪が顔を上げた。
必死に何かを言い繕うとしている。
けれど、言葉を出すたびに、涙が頬を伝い流れ落ちる。
「やだ……何で、と、止まらないんだろ……っ。わ、分かってる、分かってるからお願い……!」
智晴は茫然とした。
何が分かってて、何をお願いしたいのか、美雪の言葉は全く分からない。
それほどまでに美雪は取り乱している。
やがて、言い訳することも止めて、美雪は泣いた。
落ちる涙が頬を濡らし、手を濡らし、制服のスカートを濡らしていく。
美雪が泣いている。
思えば、美雪が笑顔以外の表情を見せるのは初めてだった。
少し大人びた雰囲気の美雪。
何をしても、彼女の心を大きく動かすことは出来なかった。
けれど今、美雪は泣いている。
笑顔を保つことが出来ず、コントロールの出来ない心のまま、ただ涙を流している。
その原因を作っているのは、間違いなく智晴だ。
ゾクリと、した。
智晴じゃなかったら、きっと美雪はこんな表情を見せなかった。
智晴じゃなかったら、きっと美雪はこんなに心を動かさなかった。
その事実が、美雪を泣かせることが出来るのは自分だけだという事実が、なんとも言えない恍惚を味合わせた。
「美雪ちゃん……」
美雪の腕を優しく引き、小さな体に腕を回す。
美雪は抵抗しない。
そのまま自分の胸に閉じ込めて、智晴は出来る限り優しい声で美雪に問いかけた。
「俺のこと、好き?」
答えは、もう知っていた。



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