若葉のリチェルカーレ
第1話 回る日常 -5-


「先生ー。風紀委員は海倉君でいいと思いまーす」

 全ては、その一言が元凶だった。
「……は?」
 ナオトは声の主を睨みつけた。もっとも、レンズの厚すぎる眼鏡のせいで、ナオトがどれほど鋭い目つきをしているのかは相手には見えなかったのだろうが。

 ナオトのクラスではこの日、各委員会に所属する委員の選出を行っていた。
 先日の風紀委員長襲来の一件からナオトはクラス内での認知度を一気に上げてしまい、今や望んでもいないのに友人面をして親しげに絡んでくる生徒までいる始末だ。
 その内の一人が先ほど発言をした高瀬という男子生徒で、彼は必要以上に風紀委員長とナオトの関係を詮索してくる少し鬱陶しい人物だった。
「あー、俺もそれでいいと思いまーす。だって委員長のお墨付きもらってたしー」
 続いて手を上げたのは、高瀬とよくつるんでいる信原という生徒だった。彼はとてもミーハーで、葛城家という名家の人間と繋がりがあるナオトに接触することで彼らと直接絡んでみたいという考えが明け透けな、これまた鬱陶しい人物だった。
「わたしもー」
「はいはい、俺もー!」
 教室のあちこちから、次々と手が上がる。これにはさすがの担任も驚いたようで、
「海倉くん、委員長からの推薦を受けたの? それはすごいねー。皆からもこれだけ推されてるし、もう決定でいいよね?」
 と、勝手に黒板に名前を書き込もうとしていた。
「え、えぇぇ! ちょっと待って下さいよ! 俺の意思は!?」
「つべこべ言わずにやれよなー、海倉ー」
「そうだぞ海倉君、せっかく委員長が是非って言ってたんだから」
 信原と高瀬が口々に言う。
「そんなこと言われても俺……!」
「まあほら、人生何事も経験っていうから。はーいじゃあ決定ねー」
「ちょっと先生ー!!」
 抗議の声を掻き消すように、ぱちぱちと拍手喝采の音。
 こうしてナオトの意思とは関係なしに、彼は風紀委員として一年間を過ごすことになったのだった。





 悪夢のようなホームルームが終わったあと、早速風紀委員会室へ行くようにと言いつけられたナオトは、足取りも重く目的の場所へと向かった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。全てはあの屋上で遭遇した事件のせいだった。
 あの時うっかり騒ぎに踏み込んでしまってさえいなければ――いなければ?
 あの女子生徒はナオトの目の前で殴り飛ばされ、下手をするともっと酷い目にあっていたかもしれないのだ。
 それを見て見ぬふりをしてまで、他人との接触を避ける必要が果たしてあるのだろうか?
 分からない。分からなかったが、人と接するのはまだ、ナオトにとってそれほど気軽なものではなかった。

 風紀委員会室の前までやって来たナオトは、ノックをする前に何度か深呼吸をした。
 ここまで来たら、もう覚悟を決めるしかない。
 意を決して扉を叩こうとしたその瞬間、それは唐突に内側から開かれた。
「あっ……」
 扉を開けた張本人である女子生徒が小さく声を漏らす。彼女の顔には覚えがあった。そしてそれは彼女も同じだったようで。
「貴方は先日、屋上で助けてくださった……」
 上品な口調と声色で言った女子生徒は、屋上での揉め事の仲裁に入っていた少女だった。
「ど、どうも……あの、大丈夫でしたか?」
「ええ、わたくしはこの通り。貴方さまこそ、大丈夫だったのですか? 保健室にも行っておられなかったようですけれど……」
 とても心配そうに問いかけてくるので、ナオトは愛想笑いを浮かべた。
「はは……俺も、別に。問題なかったです」
 本当はあのあとも痛みは続き、休日中はほとんど部屋に閉じこもって湿布の世話になることになったのだが、余計な心配をかけたくはなかったのでその事実は伏せておくことにした。
「そうですか、安心致しましたわ」
 少女はほっと安堵の息を吐いた。彼女の物腰の柔らかさからは、とても三人の不良に一人で立ち向かっていた気丈さとイメージが結びつかない。
「……ところで、こちらに来られたということは、ひょっとして貴方さまも風紀委員に?」
「え、あ、はい、まあ」
 何とも歯切れの悪い返事をしてしまったが、目の前の少女はそれを聞いた途端にパッと表情を明るくさせた。
「お兄さま! 先日のあの方が来られましたわ!」
 叫びながらぱたぱたと室内に駆け込んでいく。
 それにしても「お兄さま」とは一体、誰のことなのだろう。
(いや、まさかね……)
 嫌な予感がして、ナオトはもう一度溜め息ともつかない大きな深呼吸をしてから、風紀委員会室に足を踏み入れた。
 室内には、既に二十名近い生徒が集まっていた。各学年の各クラスから一名ずつ選出しているのだから、これぐらいの数になるのは当然のことだろう。
「スミレ。あまり大声で騒がないように。他の方に迷惑ですよ」
「あ……はい。申し訳ありません、お兄さま」
 スミレと呼ばれた少女は、しゅんとした様子で着席した。
「こんにちは、海倉君。少し狭いですが、どうぞお好きな席に座って下さい」
(……ばっちり、覚えられてるな……)
 溜め息が出てしまいそうなのをぐっと堪えて、ナオトは風紀委員長に促されるままに適当な空いている席へと腰かけた。
 少女が「お兄さま」と呼んでいたのは――予想はついていたが――風紀委員長、葛城シオンのことだった。
 つまりあの少女が、風紀委員長の妹なのだ。
 オリエンテーションの日の朝にルームメイトのユズルが言っていた、同学年に風紀委員長の兄妹がいるという話を思い出す。つまり彼女はナオトと同じ学年だ。とは言っても彼女は特進科なので、普通科の自分とは縁遠い存在なのだろうが。
 誰に対しても厳しそうな兄に対し、妹はどこまでも人に優しそうな雰囲気を纏っていて、本当に同じ家庭で育ったのか疑わしいぐらい似ていないな、とナオトは心の中で思った。
「……まだ何名か来ていませんね。ホームルームが長引いているのかしら」
 前髪をサイドに流してヘアピンで留め、首半分ぐらいの長さでまっすぐに切り揃えられたセミロングヘアの女子生徒が、壁にかけられた時計に目をやりながら口を開いた。腕組みをしてしっかりと背筋を伸ばした姿勢やきりっと釣り上がった眉からは気の強そうな印象を受ける。特進科の象徴である赤色のブレザーが、その印象を引き立てていた。
 そして彼女の外見もまた、シオンと同じようにいかにも風紀委員だと感じられる一切の乱れのないものだった。
「まだ……話し合ってる最中のクラスがあるのかもしれません。俺が教室から出る時、隣のクラス、まだホームルーム中だったし」
 彼女のそばに座っていた男子生徒が淡々と言った。ほとんどの人間がブレザーを着用している中で彼は紺のカーディガンを羽織っていて、左目の下にほくろがあるのが印象的な人物だった。終始うつむきがちで声もさほど大きくなく、どことなく暗そうに見える。
「一年生もまだ揃っていないみたいだし……まったく自主性がないわね。各員に立候補者がいればすぐに終わるというのに」
 鼻白む女子生徒に、すみません、とナオトは内心呟いた。
 自分もやる気はなかったけれど推薦で決まったので嫌々来ました、なんて正直に彼女に言ったら、鬼のような形相で殴り飛ばされそうだ。
「そうですね……あまり皆さんをお待たせするのも悪いですから、先に始めてしまいましょうか。遅れてきた方々にはまた改めて話をするとしましょう」
 風紀委員長の一声で、委員会の話し合いが始まった。



 結局この日は各自の顔合わせと、大まかな風紀委員としての活動内容を聞かされただけで解散となった。
 しばらくは上級生をサポートにつけてもらいながら、徐々に委員会の仕事に慣れていってもらうという流れになるらしい。
 朝の遅刻者の取り締まりや校内の見回り、行事中の風紀委員の役割など、想像していたよりもやらねばならないことが多く、忙しい日々を送ることになりそうだった。
(それにしても……)
 ナオトは、右手に握った薄緑色の腕章を眺めながら、今日出会った上級生について振り返ってみた。
 風紀委員長と、気の強そうな女子生徒――どうやら彼女は副委員長らしい――。暗い雰囲気の男子生徒。他にも、声が大きい上に熱すぎる生徒や、小姑みたいに口うるさい生徒など。
 まるでイロモノばかり寄せ集めた劇団にでも入ったかのような個性の強さに、ナオトは不安を覚えずにはいられなかった。彼らからのサポートは果たして頼りになるのだろうか。
 そして何より、誰かを傷付けてしまうような力しか持たない自分に、学園のルールや治安を守る風紀委員の活動をこなすことができるのだろうか。

 屋上で見た、鬼のように容赦のない風紀委員長の姿を思い出す。
 明らかな悪意を持って他人を傷付けようとする行為は許されるものではないと、彼はあの時言った。
 そんな許されない行為を止めるために、同じ暴力を用いることの矛盾。彼はそれに気付いているだろうか?
 もし気付いているとするならば、彼はその実力を行使する時、一体何を思っているのだろう?
 自分の行いは絶対の正義だと考えているのだろうか。それとも――?

 一つの些細な事件から回り始めた日常に、わずかな他人への興味と、大きな不安を抱えて。
 ナオトはこれからの日々を憂い、また一つ、溜め息をついた。




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