金木犀


 ――どこか遠くから、呼ばれているような気がする。
 それに気付いた途端、微睡んでいた意識がゆっくりと覚めていく。ふわりと、金木犀の甘い香りが鼻腔をくすぐった。



「ん……」
 重い瞼を開けると、中等部の制服を纏った少女が正面からこちらを見ていた。
「……なに?」
「あの、えっと。ここ、中等部の敷地なんですけど」
 彼女は【どうして高等部の制服を着た人間がこんな場所にいるんだ】と思ったに違いない。少し申し訳なさそうに言った後、彼女は何かに気付いたようにハッとしてから首を大きく横に振った。
「ていうか、そもそも今は授業中なのに、こんなところで何やってるんですか」
 その言葉の意味を理解するのには、少しの時間を要した。
「……君、面白いこと言うね」
「え、え? あたし、何かヘンな事言いました?」
「ヘンも何も、授業中なのはお互い様でしょ?」
 あ、と声を発して固まる彼女にはお構いなしで、とりあえず先ほどの質問に答える事にした。
「さっき、何やってるんですかって言ってたけど。見ての通り、サボリで居眠りだよ」
「そんな、堂々と告白されても……」
 呆れたように言う少女に、質問を返してみる。
「君の方こそ、こんなところで何してるの? 説得力ないかもしれないけど、ちゃんと授業は受けておかなきゃダメだよ」
 それに触れた途端、表情が一変して曇ってしまったのを見て、彼女が今何かに悩んでいるのだと直感した。
「……わかっては、いるんですけど」
「けど?」
 うつむきがちになってしまった少女に見えるように、ぽんぽんとベンチを叩く。彼女は少し悩む素振りを見せたあとで、おずおずと隣に腰掛けた。
「この学園には、名家の人達がたくさん集まっています。けど……あたしの家は、そんなにすごいものじゃなくって」
 少女はぽつりぽつりと、抱えているものを吐き出し始めた。
「でも、自分で言うのも何ですけど、成績は結構良い方で。周りの人達と比べても、少し抜きん出ているぐらい」
 それが、と続ける彼女の語調が明らかに落ち込む。
「一部の人達には面白くないみたいで、目をつけられちゃったみたいなんですよね……あたし」
 どこか他人事のように、自虐気味に彼女は言った。
「そのうち、わざと聞こえるように厭味を言ってくる人が出てきて……それだけでもしんどいのに、今までほとんど話した事なかったのに、まるで私の理解者みたいに接してくる人まで現れて。もう、うんざり」
「なるほど……ね」
 イジメというほど深刻なものでもないようだが、それでも授業を抜け出してまでクラスメイトと関わりたくないと感じているのは、決して良いとは言えない傾向だった。
「でも、その気持ち、ちょっと分かるかな。君とはちょっと違うかもしれないけど」
「え?」
「気付いてると思うけど――」
 言って、胸元の装飾を見せる。それは、自分がこの学園にとって【特別】である事の証だった。
「これのせいで、鬱陶しいぐらいにチヤホヤされたり。かと思えば、それを妬んで文句を言う人達もいる。頼んでもないのに妙に気を遣われたりもするし。こんな事を望んでいた訳じゃないのにって思っちゃうと、余計にしんどくなるんだよね」
 少女は真剣な眼差しで話を聞いてくれている。
「長い間それを経験しているうちに、少し慣れてきたけど……決して良い気分にはならない。それでも挫けずに頑張ってこれたのは」
 彼女の目を見て、微笑んだ。
「君みたいな人がいるから、だよ」
「あたし、みたいな……?」
 きょとんとする彼女に向けて、更に言葉を紡いでいく。
「さっきも言ったように、この飾りを目にするだけで態度が変わってしまう人は多い。でも、たまに君みたいな人が――相手が【特別】だって分かっていても自然に接してくれる人が現れると、それだけで嬉しくなれるから。ほんの些細な出会いでも、大切にしたいって思うようになった」
 少女の表情に、少しずつ元気が戻っていく。あと、少し。
「それに、自分が変に特別扱いされると、人に対してそういう事はしたくないって思えるようにもなるしね。悪い事ばかりでもないよ。今の状況を我慢しろとまでは言わないけど、こうやって前向きに考えていくと、意外と嫌な事ばかりじゃないんだなって思ったりしない?」
「嫌な事ばかりじゃない……か」
 彼女の呟きに合わせるように、授業の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響いた。少女はすっと立ち上がると、こちらを振り返った。先ほどまでとは見違えるような、満面の笑みで。
「あたし、教室に戻りますね! お話聞いて下さって、ありがとうございました!」
「気にしないで。これも仕事みたいなものだしね」
 彼女はこの言い回しに疑問を持ったようだったが、深く追求してくる事はなかった。
「良かったら、またこうやってお話したいです。あ、でも、先輩もちゃんと授業受けなきゃダメですよ?」
「ふふ、そうだね。次はちゃんと休み時間に会おう」
 そんな他愛もない言葉を交わして、彼女と別れた。

 彼女はきっと、今よりもっと人に優しくなれる。自分が【特別】である事に慢心しないような人間になる。そんな確信があった。
 だからこそ、この役目を託す事もできるかもしれない。それは、【特別】である事を望んでいないようだった彼女にとっては、酷な事かもしれないけれど。

 そんな事を考えながら、そよ風に乗って運ばれてくる金木犀の香りを、めいっぱい吸い込んだ。



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