朝顔


 ――頭が重い。
 それでもとにかく起き上がろうと、私はゆっくりと上半身を起こした。カーテンの閉め切られた窓から射し込む光は……ない。当然だ。私は昼に寝て夜に起きるという生活を長く続けているのだから。
 階段を下りて、まだ灯りの消えていないリビングへ入る。すると、母親がこちらを見て微笑んだ。
「あら、起きたの?」
「うん。ご飯は?」
「冷蔵庫の中に置いてあるから、温めて食べて」
 わかった、と言って冷蔵庫を開け、作り置きされていた食事をレンジに放り込む。待っている間に私は携帯を開き、受信したメールに目を通す。長く引きこもりの生活を続けていた私にとって、もはや友人などと呼べる存在はいなかった。ただ、一人だけ――私の幼馴染だけは、いつも私の事を気にかけてくれて、日中の出来事を連絡してくれる。
 最近の話題の中心となっているのは、彼が育てているという朝顔の話。今日は蔓が伸びたとか、蕾がついたとか、そういった内容のメールを写真つきで送ってくる。私も密かにその朝顔が咲いた時の写真が送られてくるのを楽しみに待っていた。

 その後、母と一緒にテレビを見ながら他愛もない話をして、食事が終わり、部屋へと戻った。正直なところ、私の行動を咎めない母には感謝とともに、大きな罪悪感を持っていた。
 快く思っているはずなんて絶対にないのに、怒りも諭しもしない。ただ私が自らこの生活を抜け出そうとするのをじっと待っている。それは分かっているんだけれど……外は、怖い。
 切欠もなくて、結局はずるずると変わらない生活を続けてしまっている。部屋に閉じこもれば閉じこもるほど気持ちが塞ぎ込んで、ただぼんやりと過ごすだけの時間も増えた。
 部屋に篭もってやりたい事がある訳ではない。ただ、やりたくない事から、逃げているだけなのだ。


 その日、外から射し込む光が眩しくなり、家人が活動を始めた頃。メールの着信音が鳴り、私は携帯を手に取った。幼馴染からだ。本文を見ると一言。
 【朝顔が咲いたよ】と書かれていた。
 けれど、そのメールには写真が添付されていなかった。付け忘れたのだろうかと思い、私は一言返した。
 【良かったね! 写真はないの?】
 それから大した間もなく返事があった。その内容を見た私は、頭の中が真っ白になりそうになった。
 【ない。だから、一緒に見に行こう】
 見に行くという事は、朝から外に出なければならないという事だ。私が一体どれだけ長い間それをしていないのか、彼は知っているはずだった。ぶるぶると震える指で返信を打つ。
 【それは無理だよ】
 すると、またしても早い返事。
 【そう言うと思った】
 それを見て、私は少しだけほっとした。彼は私が外に出たがらない事を分かっているはずなのだ。
 でも、その安堵も束の間。ふいに玄関のインターホンが鳴り、心臓が跳ね上がった。誰かが玄関を開けて応対している。そして扉が閉まる音が聞こえた後、続いて階段を駆け上がってくる音。間違いない。そう思った時にはもうドアは開かれていて、そこには幼馴染が立っていた。
「迎えに来たぞ」
 私は返事ができなかった。彼は休日になるとたまにこうやって朝方に遊びに来る事があったから、家族もあっさり招き入れてしまったのだろう。今日ばかりはそれを恨めしく思った。
 彼は強引に私の手を取り、言った。
「泣いて嫌がったって無駄だからな」
 抵抗する気力も湧かないまま、私は部屋から連れ出された。リビングから二人分の飲み物を持って出てきた母と目が合う。外に引っ張り出されそうになっている私を呆然としたまま見送っていた。
 久しぶりに日の当たる世界に飛び出した私は、その眩しさに思わず目を細めた。
その間に彼は自転車にまたがり、その後ろを指す。私は覚悟を決めてそれに跨った。ゆっくりと自転車が動き出す。風の匂いも感触もとても久しぶりで、とても心地よかった。

 自転車は、そう遠くない空き地の前で止められた。そこは長く使われていない場所で、雑草が自由気ままに育っている。彼はその空き地の奥へと進んでいく。私も彼を見失ってしまわないように一生懸命茂みをかき分けて彼を追った。
 そして、ようやく茂みを抜けた先で、私は思わず感嘆の声を上げた。
「うわあ……っ!」
 一面に咲く朝顔の花。写真で見ていた時には、てっきり一つの鉢で育てているのだとばかり思っていたから、本当に驚いた。きっと写真で見ていたら、この驚きや感動なんて味わえなかったのだろう、と私は思った。
「どうだ?」
「うん……すごく、綺麗」
 朝顔に目を奪われている私の顔を彼がふいに覗き込んで、そして満足げに笑った。
「やっぱお前、そうやって笑ってる方がいいよ」
「えっ?」
 突然言われて反応に困り、思わず聞き返してしまった。
「朝顔ってさ、多分自分が一番綺麗に見える時間が分かってるんだよ。だから朝に咲くんだ。……お前もさ、夜に活動してるより、こうやって日の下で明るく笑ってる方がずっと似合ってると思う」
 彼は真剣な表情で語りかける。私もそれを静かに聞いていた。
「外に出たくないのは分かる。外が怖いってのも分かってる。でも絶対大丈夫だ。お前は一人じゃない。怖いなら俺が一緒にいてやるから。俺が守ってやるから。だから少しずつ、一緒に頑張っていこう。な?」
 私は涙を堪えながら一度頷き、そして朝顔に再び目をやった。
 自分の目で、足で、今日みたいな感動に出会えるのならば、それはとても素敵な事なのかもしれない。
 そしてその時、隣に彼がいてくれるのなら。
 私は頑張って【朝顔】になろうと。そう思った。



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