紫陽花


 あるホテルの一室で、俺は緊張状態から解放されないままに日々を過ごしていた。
 俺が【組織】を抜け出してから一週間が経った。それだけの期間生きていられる事は奇跡に近かった。奴らは去る者を許さない。地の果てまでも追い続け、秘密を知る者を排除するのだ。


 ふいに、コンコン、とドアが無機質な音で鳴いた。俺は警戒しながら近付き、ドア越しに言った。
「……誰だ」
 沈黙があり、その後向こうから声がした。
「あたしよ」
 俺はその声をよく知っていた。同じ組織にいた女だ。そして――俺の愛した女だった。彼女がここに来た理由は一つしかない。俺はしばらく押し黙っていたがドアの向こうの気配が動く様子はなく、数十秒の沈黙の後で観念して鍵を外した。放っておいてドアを蹴破られたりでもしてはたまらない。
 ノブが回り、ドアが開く。彼女は組織で顔を合わせていた時と変わらぬ姿でそこに立っていた。黒いレザージャケットとズボンは、彼女の女性的なボディラインを強調していた。
 彼女は緩いウェーブのかかった長い薄紫の髪を軽く払い除ける仕草をする。これは彼女の癖なのだ。
「……紫陽花」
 俺は複雑な感情を抱えたまま彼女の名を呼んだ。名と言っても本名ではなく、彼女のコードネームだ。より正確に言えばそれは紫陽花でなく【ハイドランジア】というものだったが、俺は紫陽花の方が呼びやすいと思っている。
「……入って、いいかしら?」
 構わないよ、と言いながら彼女を室内へ促した。そして改めて施錠してから俺も部屋に戻った。
 彼女の用件は、一つしか考えられなかった。

「何故逃げ出したの?」
 彼女の詰問に俺は答えなかった。説明する必要はないと思った。俺は組織のやり方に疑問を感じて抜け出した。それが命に関わると分かっていても、だ。
 しかし紫陽花は組織に残り続けている。それは彼女が組織のやり方に従う道を選んだという事を示していて、説明したところで相容れないのも目に見えていた。
「今からでも遅くはないわ。あたしと一緒に来れば――」
「紫陽花」
 俺は少し強い口調で彼女を呼び、首を横に振った。
「それは無理だ」
 彼女は目を伏せ、しばらく黙っていたがやがて、
「そう……それなら、仕方ないわね」
 と、息を吐き出した。
「できれば、貴方とはこんな形で別れたくなかった」
 言って、紫陽花は縋るように俺に抱きついた。髪の香りが鼻孔をくすぐり、ほんの少しだけ心に余裕を取り戻す事ができた。
 彼女は顔を上げて、じっと俺の目を見た。俺もその目を見返した。組織から逃げ出した俺が紫陽花に会う事は、二度とないだろう。だから彼女が来たのだ。俺に別れを告げる為に――。
「さよなら」
「ああ。……さよなら」
 俺達は深く口付けた。吐息が交じり、絡み合う舌の感触に頭の後ろが痺れて、眩暈のような感覚を覚えた。

 長い口付けの後、互いの唇が離れるのとほぼ同時に全身の力が抜けるのを感じて、俺は膝をついた。そしてそのまま床に倒れ込む。彼女はそんな俺の傍らに座ると、頭を優しく撫でてくれた。
 彼女が【ハイドランジア】と呼ばれる理由――それは、紫陽花そのものだからだ。
 可憐で美しい姿をしているが、【経口摂取】をするとその花が持つ強い毒に冒され、死に至るのだ。

 ゆっくりと意識が遠くなり、世界が闇に閉ざされていく。
 最後にそばにいてくれたのが彼女で良かったと、俺は思った。



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